2011年9月22日木曜日

「不良少女モニカ」を観て

こんばんは。

久しぶりの更新になり、緊張のような照れくさいような気持ちです。

昨日は、弟の部屋のデジタルテレビで、夜の12時あたりから観ることにしました。

この映画を観ようと思ったのも、先日「二人のヌーヴェル・ヴァーグ、ゴダールとトリュフォー」という映画を一人で観に行き、そこでゴダールの「勝手にしやがれ」やトリュフォーの「大人は判ってくれない」の俳優のカメラ目線に大きく影響した映画だといっていたからです。

少女のモニカは自由過ぎて、それからそれに溺れる恋人のハリー。過酷な労働を社会の理不尽な枷として、反抗するふたり。なにも責めることのできない世界の中で、人生を全うする。どれだけ無謀に見えても、そうとしかできない若い男女を撮った映画は、ゴダールとトリュフォーの映画に男女や世界、人生について既存の視点を変えて、モノクロに色を塗って世界を広げるような、胸を空く衝撃だったのではないかと思いました。

ただ、あの映画に関してはふたりの撮った「勝手にしやがれ」や「大人は判ってはくれない」のほうが綺麗にまとまっている気がします。音が少ないことと、ワンカットはとても静かで美しいけれど、どれも同じような時間の長さで入っているので、動きのないように見えるところがすこし退屈でした。退屈なんて大層なことを思うのは、自分に良さを受け止めるほどの感性がないのだろうと落ち込みましたが、きっとゴダールやトリュフォーの作る映画が面白過ぎることも原因だと思いました。

けれど「不良少女モニカ」でずっと忘れられないような忘れたくない場面は、モニカがボートの上で仰向けに自由気ままに寝そべり、ふたりで創り上げる不安定な自由全てを愛おしいく思い、ボートを操縦するハリーの二人を、十分なほど時間をかけて撮られたカットは映画そのもので、私の心の支えです。


最近の不安はもしそういうものが一切無くなったら、どうしたらいいのかわからないことです。


もう一回、観ればいいのかな。あははー




最後まで読んでいただき、ありがとうございました。





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