2010年5月2日日曜日

保存できないもの

おはようございます.

今朝、バラに水遣りをするとき気づいたことがあります.

まず水遣りをするまえに枯れた葉を取り除く作業をするのですが
昨日は夜中に水遣りをしたはずなのにもう葉は綺麗に乾いていて、
保存できないもののたとえの「バラにのった水玉」をはじめて
たとえではない現実のものを体験しました.

水遣りをした直後のバラはすべて満ち足りていて、自分もそのことに
満足して、その姿が本当に数時間後にあの潤った感じだけさっぱり消えているということ、またそれははじめから存在したのかと思うほど綺麗に無くなるということ、小説などで「保存できない」というたとえに使われるとき、大抵かなしい響きがするなと思っていましたが、現実は清々しいものなんだということに気がつきました.

最近読んだ小説では、淡い恋心を年上で自分に何の警戒心も抱かない男性によせるものの、別れた恋人のことはどう思ってはいるのかや、もう恋人はいるのかなど自分の思いは一切伝えず、それはたとえ今の「保存できない」曖昧で簡潔な関係を壊さないためであってそのときのたとえが「バラにのった水玉」でした.

自分のまわりはバラにのった水玉だらけだと思います.

確かなことはほとんどないです.
物事を信じる力が希薄なのだろうと思い、
時々それが問題になったりしますが解決策は今のところなく、困っています.

根本的な問題解決にはなりませんが年を重ねると問題を問題と捉えなくなったり、無視できる力がつくみたいなのでそれに期待を微かにしたりしています.

でもやっぱり本質的でないと思うとがっかりです. がーーん:(


書いていて少し落ち込みましたが、
バラをもう一度観て今日も元気に過ごそうと思います.


今日も読んで頂き、ありがとうございました.
読んでくださった方、バラにのった水玉のようにきらきらと素敵な一日になりますように!


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